エンディングノートは天国へ行くための準備ではない。これからも続く道へと導く「北極星」だ。

最近、日常生活の中で「〇活(まるかつ)」という言葉を聞かない日はありません。少し前までの定番といえば「就活」や「婚活」でしたが、最近では自分の大好きなキャラクターやアイドルのぬいぐるみを愛でる「ぬい活」や、時間対効果を意識して効率よく物事を楽しむ「タイパ活」など、実に多様で新しい言葉が次々と登場しています。
これらのブームを見ていて私が素晴らしいと感じるのは、これまであまり周囲に公にしていなかった趣味やこだわりを「水面の下から水面の上へと這い上がらせて、堂々と表現できるようになった」という点です。「実は私、こんな活動をしているんだ」と胸を張って発信し、それに共感した人同士が新たなコミュニティを作り、つながりの輪を広げていく。この変化は、現代の価値観の多様性を象徴する非常にポジティブな動きであり、ぜひこれからもその幅が広がっていってほしいと願っています。
こうした数ある「〇活」の、いわば元祖と言える存在が「終活」であると考えています。日本が「高齢化社会」から、名実ともに本格的な「高齢社会」へと移行していく中で、この言葉は象徴的に生まれ、定着しました。そして、その「終活」というムーブメントと切っても切れない存在として登場したのが、「エンディングノート」です。
今やその知名度は抜群で、これまでの私たちの経験上、この言葉を出して通じなかった人は一人もいません。誰もが知っている、社会的な市民権を得た言葉だと言えます。しかし、その圧倒的な知名度とは裏腹に、登場した初期からずっと言われ続けている、根深い問題があります。それは、「エンディング」というキーワードが持つ、独特の「縁起の悪さ」や「暗い印象」です。
このネガティブなイメージを避けるため、世間ではさまざまな工夫の跡が見られます。あえて「エンディングノート」という直球の表現を使わず、名前をマイルドに変えて「マイライフノート」と称したり、「未来ノート」と言い換えたりするケースが散見されます。
言い方を変えて心理的な抵抗感を下げるという手法も、選択肢としては理解できます。しかし、それはどこか目先を変えているだけ、ある意味で人をだますような行為とも言えるのではないでしょうか。言葉を選ばずに言えば、虎の威を借るウサギのような、どこか後ろめたい気持ちが隠れている気がしてならないのです。
私たちは、何か後ろめたい気持ちを持つ必要があるのでしょうか? 決してそんな必要はないと考えています。むしろ、変化球に頼るのではなく、堂々と「エンディングノート」と名乗り、その真意をしっかりと説明する「直球勝負」で正面突破すべきではないか。私たちはそう考えています。
当然、正面突破を選べば、それなりの心理的抵抗や誤解との戦いを覚悟しなければなりません。丁寧に、ロジカルに説明していかなければ、納得してもらえるものも納得してもらえなくなります。それでも私たちは、あえてその直球(いばら)の道を選び、この言葉の持つ本当の価値を皆さんと共有したいと考えています。
死を意味するなら、それは「デスノート」だ
では、なぜ「エンディングノート」という言葉はこれほどまでに敬遠されるのでしょうか。その根本的な原因は、言葉の解釈にあります。「エンディング」は、言わずと知れた英語の「END(エンド)」から来ています。これを人生に当てはめたとき、多くの日本人は「人生のエンド=死」と直結させてしまいます。だからこそ、「縁起でもない」「まだ自分には早い」「死に支度を始めろということか」と、強いアレルギー反応を示してしまうのです。
しかし、立ち止まってよく考えてみてください。エンドという言葉の本質は、本当に「死」なのでしょうか。結論から言えば、「エンディングノート」を死の準備と捉えるのは、完全な誤解だと考えています。もし、そのノートに書くことが「死」を決定づけたり、命の終わりを強制的に引き寄せたりするものだとしたら、それはもう「エンディングノート」ではなく「デスノート」のはずです。私たちは自分の命の終わりを意味しているわけではありません。
英語の「END」を日本語に訳したときに「終(おわり・しゅう)」という言葉をあてはめることが多いので、そこを再度考え直してみましょう。日常でよく使う「終」が付く言葉の一つに、学校の「終業式」があります。 終業式を迎えたからといって、学校が閉校し、消滅するわけではありません。その学期における勉強や行事に一度「区切り」をつけ、通知表を見ながらこれまでの歩みを振り返る。そして、その後に続く「次の学期(未来)」をより良く過ごすための期間に入る節目です。終業式の後には、必ず楽しい夏休みや、新しい始業式が待っています。
つまり、私たちが日常で使う「終」や「エンド」の本質は、物事の完全なストップや消滅を意味するものではなく、未来を前提とした「一時的な区切り(チェックポイント)」なのです。
ここで、「死」と「終(エンド)」の決定的な違いを整理しておきましょう。「死」は一度きりであり、一度訪れたら二度と後戻りもやり直しもできません。 しかし、「終(エンド)」は違います。それは人生という長い道のりの中で、自ら設ける「区切り」に過ぎません。区切っているだけですから、その後に続く人生の中で、何回も訪れるし、内容を見直したりやり直すことができる状態を指しているのです。
だから「エンディングノート」は、決してネガティブな「死に支度」ではありません。それは、これからの人生をより良く、自分らしく生きるために、一度立ち止まって人生をポジティブにデザインし直すための「前向きな区切りのためのノート」なのです。
未来を照らす「北極星(ポラリス)」としてのノート
では、人生の「一時的な区切り」として、終活におけるエンディングノートを書くことには、一体どのような意味があるのでしょうか。それは、自分の人生に「マイルストーン(道標)」を設けるということです。
現代を生きる私たちは、誰もが漠然とした不安を抱えています。「自分はあと何年生きられるのだろうか」「いつまで元気に動けるだろうか」「寝たきりになるまであと何年残されているのか」……。しかし、これらの答えは神様以外、誰にも分かりません。未来は完全に不確実です。
だからこそ、分からないからといって、その不確実な未来を恐れて、ただ縮こまって生きるのはもったいないと思います。
いつ、その時が来ても絶対に後悔しないように、「今という限られた時間を、どう豊かに、中身の濃い人生として生き切るか」をあらかじめ作戦として考えておく。それこそがエンディングノートの本当の役割です。「自分はこういう処置を受けたい」「これからの時間はこういう趣味や人間関係に費やしたい」と書き留めておくことは、未来を縛るためではなく、今を輝かせるためにあります。
つまり、エンディングノートとは、「どう死ぬか(死に方)」を記録するノートではなく、「今をどう最高に生きるか」という進むべき方向性を指し示してくれる、夜空の「北極星(ポラリス)」のような存在なのです。大海原を航海する船が、暗闇の中でも北極星を見れば迷わずに進むべき道が分かるように、エンディングノートという北極星が手元にあれば、私たちはこれからの人生の選択に迷うことがなくなります。
今、私たちがどうしても乗り越えなければならない壁が、この「エンディングノートに対する誤解の払拭」であると考えています。これを正面突破して乗り越えない限り、その向こう側にある、本当に私たちが向き合うべき具体的な課題――例えば、私たちが考えている「運転のエンディングノート™」の議論にたどり着くことができないからです。まずはこの言葉を、誰もが前向きに考えていただくようにしなければなりません。
「終わるため」ではなく「今を最高にするため」に
ここまで「エンディングノート」の本質は、死の準備ではなく、未来を見据えて今を最高に生きるための区切りであるとお伝えしてきました。このロジックは、人生の縮図とも言える「車の運転」においても、全く同じことが言えます。
人生の残り時間と同じように、「自分があと何年、元気に運転を続けられるか」なんて、誰にも予測できません。「〇歳になったら一律に危ない」などという一概なデータは存在しないのです。年齢を重ねても、あと3年、5年と何の問題もなく元気に走り続けられるかもしれない。その一方で、来年急に、自分でも気づかないうちに身体機能や認知機能に変化が訪れるかもしれない。こればかりは誰にも予測がつかない不確実なものです。
だからこそ、「いつか運転をやめる日が来るかもしれない」という未来の不確実性から目を背けるのではなく、その日が来る瞬間まで、一回一回のドライブを人生最高に安全で、中身のあるものにする。そのために、自分の運転に対する理想や、家族との約束を前向きに書き留めておくことが必要になります。
繰り返しになりますが、「運転のエンディングノート™」は、運転をやめるためのノートではありません。あと何年ハンドルを握れるか分からないからこそ、その日を迎える最後の瞬間まで、あなたの運転人生を最高に輝かせ、安全に走り切るための『作戦ノート』です。
エンディングノートは、決して人生の終わりを告げるデスノートなどではありません。あなたのこれからの歩みを、いつでも見直し、いくらでも豊かにしていける、未来への「北極星」なのです。まずはその誤解の壁を破り、堂々と、あなただけの前向きな一歩を書き出してみましょう。
*「運転のエンディングノート™」はDSSJが商標登録出願中です。
