なぜ免許返納を推進する「学会」は存在しないのか?天動説から考える「第三の選択肢」の必要性

今年度、ありがたいことに3つの学術学会への加入を認めていただきました。先日、そのうちのひとつの学会に実際に足を運ぶ機会があったのですが、そこはまさに「知の最前線」と呼ぶにふさわしい、熱気に満ちた空間でした。
自動車事故という、現代社会が抱える複雑な課題に対して、医療、心理学、工学などあらゆる専門分野の先生方が多角的な視点から調査し、データを導き出し、考察を戦わせている。その圧倒的な臨場感を肌で味わい、私自身、大きな刺激と興奮を隠せませんでした。
「いつかは自分も、この壇上で実践してきた成果を発表してみたい」
そんな一歩進んだ目標も自然と湧き上がってきました。しかし同時に、学問の世界には厳格な「お作法」があることも知りました。客観的なデータの取り方はもちろん、関連する先行論文の正しい引用方法、そして研究の公正性を担保するための「利益相反(COI)」に関する記述など、乗り越えるべき壁は少なくありません。まずはこれらのルールをしっかりと学びながら、一歩ずつ、着実に準備を進めていこうと決意を新たにしました。
そんな心地よい緊張感の中で、ふと私の脳裏をよぎった「ある違和感」がありました。世の中には、人々の意見や社会の最適解が大きく二分される事態がよくあります。多くの場合、それぞれの主張を理論的に支える「2つの異なる学会」が存在し、お互いに対峙する形でディベートのように議論を展開するものです。
歴史を振り返れば、宇宙の構造を巡る「天動説」と「地動説」の対立がまさにそうでした。また、宗教改革における「カトリック」と「プロテスタント」の思想的対立も、お互いの正当性を学術的・理論的に突き詰めた一例と言えるでしょう。
こうした意見の対立は、一見すると不毛な争いに見えるかもしれませんが、世の中同じ考えの人ばかりではないという「社会の多様性」を如実に表しています。お互いのロジックをぶつけ合うディベート的な議論は、単なる感情的な衝突に終始しないのであれば、むしろお互いの思考レベルを高め合い、より深い真実に近づくための強力な「刺激」になる、と考えています。
では、現代の大きな社会課題である「高齢ドライバーの自動車運転」というテーマをこの観点から見つめ直したとき、一体どのような構造が見えてくるでしょうか。
学問の役目と、メジャーな世論に潜む「奇妙な非対称性」
私が今回参加した学会を含め、今年度加入した3つの学会は、いずれも明確なスタンスを持っています。それは、「高齢ドライバーが、いかに安全に、尊厳を保ちながら運転を続けられるようにするか(運転継続)」を模索するという方向性です。私はこのアプローチに深く賛同したからこそ、加入を決意しました。
しかし、一歩学会の外に出て「世間の考え」を見渡してみると、景色は180度異なります。メディアや一般的な世論は、「高齢者の運転はリスクである」「悲惨な事故を防ぐために、一刻も早く免許返納をさせるべきだ」という、免許返納一辺倒の強い同調圧力に満ちています。ここで、奇妙な「非対称性(アンバランスさ)」に気づかされます。
これほど世の中が「免許返納」を大合唱し、それが大半の正論として扱われているにもかかわらず、私の知る限り、「いかにして高齢ドライバーに免許を返納させるか」を後押しし、それを専門に研究する学会はあまり見当たらないのです。私の調べ方が不十分なだけかもしれませんが、少なくとも表立った学会(学術組織)は今のことろ発見できていません。
社会の多数派(メジャー)の考えを支える学会が存在せず、むしろ「安全運転を実現することで、免許返納しなくても運転ができる世の中を作る」という、世間的には少数派(マイナー)に見える側にばかり、多くの先生達が集まって熱心に議論している。これは何だか非常に不思議な現象だと感じます。
考え方によっては、「免許返納の必要性など、検討するまでもなく明らかだから、わざわざ学会で議論する余地(不確実性)がないのだ」という意見もあるでしょう。手続きの話にすぎないのだから、学問にする必要がない、というわけです。
しかし、本当にそうでしょうか。私はこの空気感に、かつて天動説がメジャーだった時代、「太陽や星が地球の周りを回っているのは、見るまでもなく明らかだ」と誰もが疑わなかった、あの歴史の盲点と同じような危うさを感じてならないのです。
もし、世論と同じように「免許返納を力強く推進するロジック」を掲げる学会が存在し、私たちがいる「運転継続・延伸を支持する側」とガチンコ勝負で激しい議論を戦わせる場があったなら、どれほど有意義でしょうか。お互いの議論のレベルが上がり、切磋琢磨するプロセスの中で、現代の私たちが思いもよらないような「新たな知恵」やブレイクスルーが見つかるはずです。
では、なぜ「免許返納推進派の学会」は存在しないのか。もしこのまま、世論を後押しする学会が「ない」状態が続いた場合、未来はどうなるのか。過去の歴史的な事例(症例)を参考に、少し勝手な想像を膨らませてみたいと思います。
過去の事例が証明する「学者がいる領域」の勝率
歴史を紐解くと、免許返納問題と全く同じ構造を持った、決定的な事例がいくつか存在します。
事例1:ハンセン病の「強制隔離政策」の歴史
かつて国や世論(行政)は、「ハンセン病は有害であり、社会の安全を守るためには一律に隔離・排除するしかない」という強い方針を疑いませんでした。これが当時の「世間」の考えでした。しかし、医学や公衆衛生の関連学会では、「適切な治療を行えば隔離の必要は全くない。強制隔離は基本的人権の侵害であり、むしろ医学的に逆効果だ」という議論が粘り強く続けられていました。
世論を後押しする学会はなく、学会側は世間の動きとは真逆の主張を続けていたのです。そして歴史が出した最終的な結論は、「学会側(専門家)が正しかった」というものでした。国は敗訴し、過去の隔離政策は人道的な大失敗として歴史に刻まれました。
事例2:労働における「年齢による一律定年制」の歴史
産業界やかつての世論は、「一定の年齢に達した労働者は、一律に能力が落ちるのだから引退させるべきだ」という引き算の論理(エイジズム:年齢差別)を常識としていました。しかし、老年学や社会科学の学会は、「個人の能力差を無視した一律の排除は、社会的な損失(労働力不足、本人の健康悪化)を招く」と実証データをもとに主張し続けました。
結果として現代では一律排除の世論は崩壊し、定年の延長や廃止、「生涯現役」を支える仕組みの構築へと、社会のルールそのものが学会側の主張に引っ張られる形で書き換わりました。
これらの事例が教えてくれる「社会の法則性」は極めて明快です。
あるテーマを巡って、意見を二分するような「対立する2つの学会」があるならば、未来の結論がどちらに転ぶかは半々の確率(五分五分)かもしれません。しかし、「世論の考えを支持する学会がゼロで、世論のトレンドに反する(抵抗する)側にしか学会が存在しない」という歪な構造の場合、過去の歴史に照らし合わせれば、最終的にはまず間違いなく『学会がある側』の勝利に終わる、と考えられます。
その方向性や事実があまりに明白であれば、そこに学会など存在する意味はないかもしれません。だから「免許返納を促進する学会」は存在しないのではないでしょうか。これは、「ただ免許返納という手続きを進めるだけだから」という単純な理由ではなく、「人間を年齢で一律に排除・禁止するという暴論は、学術的・人道的な裏付け(エビデンス)をどうしても構築できないから」に他ならないのではないでしょうか。
かつての人々が天動説を「疑う余地のない事実」と信じ込んでいたように、現代の私たちが信じ込んでいる「危ないから高齢ドライバーは免許返納すべき」という常識も、本当に一度疑ってみる必要があります。
そうでなければ、今この時代に社会全体で行っている「免許返納の推奨」という判断は、近い将来、私たちの子供や孫の世代から、「昔の人は、高齢ドライバーに免許返納させる風習があったんだね。しっかり対策を取れば事故は防げるのに、なんて馬鹿げた排除をしていたんだろう」と語られる笑い話になってしまうのではないか。私は強い危機感を抱いています。
「第三の選択肢」を探る、私たちの役目
世の中において、天動説か地動説かのように「この方法だけが絶対的に正しい」と一意に決まることなど、実はそれほど多くはありません。
現実の社会問題の多くは、「これも正解だけど、あっちも正解」「この人にとっては正しいけれど、あの人にとっては間違い」という、個別性とグラデーション(濃淡)に満ちています。免許返納というテーマも、全く同じです。 身体機能や環境の限界から、今すぐ返納することが心から正しい選択になる人もいれば、一方で、運転をやめることが生活の破綻や心身の急激な衰えを招き、明確な「間違い(損失)」になってしまう人も確実に存在します。
それにもかかわらず、現在の世論は「免許を返すか、運転し続けるか」という、ゼロかイチかの極端な二者択一を迫りがちです。だからこそ、私たちはその「間」にあるグラデーションに目を向けなければなりません。ただ闇雲に現状維持をするのでもなく、かといって絶望の中で免許返納するものでもない。本人の内発的な欲求(Desire)を見つめ直し、安全運転をサポートする新しいテクノロジー(サポカーやパドルシフトなど)を活用しながら、自らの人生を主体的に組み立てていく。
この「第三の選択肢」を提示し、その現実的な可能性と具体的方法論を探求し続けること。これこそが私が果たすべき役目であり、最大の社会的使命なのではないか、と感じます。今回の学会参加は、単なる「お作法」の学びに留まらず、自分が進むべき未来の羅針盤を改めて確信する、極めて大きな転換点となりました。この確信を胸に、これからもデータドリブンの実践と発信を続けてまいります。
