スポーツでは弱点を突き、問題解決では強点を活かす 日本人のアイデンティティで吉を出す!

学生時代は学業そっちのけで部活に打ち込み、その努力もむなしく、万年補欠だった私ではありますが、対戦相手がいるスポーツで勝つための「秘訣」を一つだけ習得し、実行するようにしています。それは、試合という限られた空間においてのみ「相手の弱点を徹底的に攻めることが許される」ということです。「対戦相手の弱みや苦手なことを素早く見つけ出し、そこを徹底的に叩く。それが勝つための唯一の戦略だ。」
最近、学校の運動部に属して部活にも励んでいる双子の息子たちが生意気盛りです。何を言っても口答えしてくる今日この頃ですが、試合前に私が伝えたこの「アドバイス」は彼らにとっても納得感があり、意外なほど真摯に耳を傾けてくれました。普段の生活の中で人の弱点を攻めるような行為は、いじめ等につながる可能性があり、人として許される行為ではありません。しかし、スポーツという場面においてのみ、それが正当な戦略として許され、そこから様々なことを学べます。これこそが教育現場においてスポーツが奨励されている理由だと考えています。
最近のスポーツの祭典としてWBCが開催され、日本人として日本人選手の活躍がとても誇りに思えました。結果はご存知の通りですが、日本チームの敗戦に対して結果責任を追及する動きが見られたことに強い違和感を感じました。野球もスポーツだから、相手チームの弱点を見つけ、そこを徹底的に攻めるもの。それをお互いに切磋琢磨して実施した結果、見事に日本の弱点を突いた相手チームが勝った、というだけのこと。試合という場面が終われば、あと腐れなく相手の勝利を祝うもの。そこに責任論を持ってくるのは、野球をスポーツではなく、まるで防げたはずの過失や事件のように捉えているということなのだろうか、という疑問が湧きました。ラグビーの「ノーサイド」の精神と同様に、試合が終われば勝者も敗者もなくお互いの健闘を称え合う。そんな清々しさが野球にあっていいのではないか、と感じたのは私だけなのでしょうか。
スポーツの良さは、誤審等の後味の悪いことがない限り、敗北しても「次」がある、という気持ちを切り替えられることだと思います。人の生死等が伴わないからこそ、負けたことから多くを学び、チームの弱点を補い、何度もチャレンジする。教育現場にスポーツが取り入れられている真意も、責任を追及するためではなく、失敗を分析し、行動を修正するプロセスを学ぶためであるはずだと感じます。責任論に終始することは、選手ののびのびとしたプレーを萎縮させ、スポーツ人口を減らすことにも繋がりかねないのではないでしょうか。もし、スポーツの負けを誰かの責任にするのが日本特有の文化だとするならば、私としては微力ながらその空気を少しでも早く修正していきたいと感じます。
スポーツと事故の狭間で
一方で、スポーツと同じ論理で語ってはならない分野があります。それは「事故」の対応です。スポーツは負けてもやり直しがきくが、事故は往々にして生死が伴うことが多く、発生すると取り返しがつきません。だからこそ、事故においては徹底した「責任の所在」と「原因究明」が必要不可欠になります。これは誰かを吊し上げるためではなく、二度と同じ悲劇を繰り返さないための「再発防止」という公衆衛生的な観点から捉えるべきもののはずです。
対策が急務となっている高齢ドライバーの事故の場合はどうでしょうか。加害者が高齢ドライバーである場合、その原因や関連するデータを詳細に分析し、社会の共有財産として共有するなどして役立てるべきだと考えています。可能であれば、加害者自身が事故の真の原因を語り、同世代へ警鐘を鳴らすことが理想かもしれません。しかし、それが現実的には極めて難しく、それはそれで理解できることでもあります。
それならば、個人の良心に頼るのではなく、公的な関係機関が積極的に分析結果等の情報を開示・提供すべきではないでしょうか。そこで、ある関係機関に対し「高齢ドライバーの事故を防ぐ活動に活かしたいので、関連するデータの詳細を提供してほしい」と直談判したことがあります。対応していただいた担当者の方は「その気持ちは非常にありがたい」と理解を示してくれたものの、結果的にはデータの提供は断られてしまいました。
私も会社員経験があるので、組織の小回りが利かない等の事情があることもわかります。しかし、この拒絶の裏側にある種の不安を覚えざるを得ませんでした。「もしかしたら、関係機関は施策を開始後、詳細なデータ分析や効果検証等を行っていないのではないか。もし、現在地を正確にプロットしないまま突き進んでいるのだとしたら、それは目的地に向かっているのか。実は自分たちが今どこにいるのかさえ把握できておらず、間違った方向に進んでいるのではないか」という疑念です。
免許返納という制度が1998年から導入されて大きな話題となり、多額の予算と人員が投じられてからだいぶ経ちました。庶民感覚からすれば、当然その「費用対効果」や「事故抑制への寄与度」は検証されているはずです。しかし、これらに関するデータを求めてもなかなか出てこない。もし、これまで実施した結果を検証もせず、「勢い」だけで現行の施策を進めているのだとしたら、それはあまりに危ういのではないでしょうか。
我々が新たな提案をすると、それに対して必ずと言っていいほど「費用対効果」を問われます。そうであれば、まずは現行の施策がどれほどの効果を上げているのか、その根拠となるデータを透明性をもって開示することが先ではないでしょうか。
二択を超えた「第三の選択肢」
今、目を世界に転じれば、各地で紛争が勃発しています。これは決して他人事ではありません。 実際、直接対立するA国とB国があり、その両方と良好な関係を築きたいと考える日本が間に立たされる状況にもなっています。あちらを立てればこちらが立たず。日本人が時に揶揄される「日和見」や「八方美人」といった性質を、今こそ「対立を和らげる調整能力」というポジティブな力に転換し、事態の先送りが許されない局面が、今まさに訪れていると感じます。
実はこの構図、日本の家庭内で日々繰り広げられている「高齢ドライバーと家族の免許返納論争」と驚くほど重なって見えます。「免許を返納するか、しないか」 と「A国をとるか、B国をとるか」。この「ゼロかイチか」の過酷な二択に対し、当事者や関係者のみなさんは膨大な時間と労力を費やし、疲弊しています。しかし、選択肢はこの二つしかないのでしょうか。私は、このような行き詰まった状況においてこそ、それぞれの立場における「強み」に着目した発想の転換が必要だと考えています。
例えば国際情勢なら、日本が両国と良好な関係であることは最大の「強み」です。どちらかを選んで、敢えて敵を作るのではなく、両者の仲介役に徹し、双方の関係改善を促すような重要な役割を果たすことこそが、日本人の得意をポジティブに昇華させた解決策になり得るのではないでしょうか。
高齢ドライバー問題も構図は同じだと感じます。 「運転に自信があり、アクティブに走り続けたい」という高齢ドライバーの意欲。それは決して否定されるべきものではなく、自立して生きようとする貴重な「強み」であり、生命力の源でもあります。現役を引退して目標を失い、元気をなくしていく親の姿を心配する家族にとって、何かにこだわりを持ち、そのために努力を惜しまない親の気概は、本来喜ぶべき「財産」のはずです。
免許返納して自由を奪うか、事故のリスクに怯えながら乗り続けるか。その二択で苦しむのではなく、本人の「運転したい」というエネルギーを活かしつつ、そこに安全運転を担保する仕組みを新たに導入する。例えば、認知機能を維持するために頭を使う機会を増やし、ペダルの踏み間違いを回避するために日頃から足腰を鍛える。それにより安全に運転を続ける、という道を進む。免許を返納する、運転を続ける、という選択肢の間にある、この選択肢を考えて実行する、という「第三の道」があるのではないでしょうか。そのためには「強み」を見つけ、その「強み」を活かすための方法を考えて行動する。それこそが、勝負の世界でも社会問題でも共通する「勝機」の掴み方だと思います。
日本の底力を発揮するために
スポーツにおける監督は、常に選手の強みを見出し、それを最大化することで相手の弱点を突こうとします。私たちは、スポーツから単なる勝敗以上の、多くの知恵を学ぶことができるはずです。
「相手の弱点を突く」という戦略眼と、「味方の強みを活かす」という共存の知恵。この二つは決して矛盾しません。そしてスポーツの勝負の場では徹底して戦い、試合が終われば称え合う。そして、事故のようなやり直しのきかない問題に対しては、責任を明確にしつつも、データに基づいた合理的で建設的な解決策を模索することが必要です。
今、日本が直面している多くの課題――少子高齢化、人手不足、国際的な立ち位置の模索――に対して、私たちはもっと「日本のアイデンティティ」をフルに発揮すべきだと改めて感じます。それは、対立する二つの意見の間でバランスを取り、双方の持ち味を活かしながら着地点を見出す、私たちが培ってきた「調和」の精神の進化形ではないでしょうか。
「危険だから取り上げる」という減点方式の社会から、「強みを活かすためにどう補うか」という加点方式の社会へ。データドリブンな冷静さと、人間の気概を尊重する温かさを両立させること。それができれば、日本はもっと活気に満ち、世界の紛争解決や高齢化社会のモデルケースとして、その底力を見せつけることができるに違いないと思います。
息子たちに教えた「弱点を突く」という戦略の先には、自分たちの弱点を知り、強みを磨き合うという、より高次のステージが待っています。私はこれからもブログの発信を通じて、その一助となるべく歩みを続けたいと思います。
