現代版「郷土の不始末を、郷土の有志が購(あがな)う」板橋区民が考える「責任」の新しい形

江戸から明治にかけて、日本には現代の私たちが忘れかけている独特の倫理観がありました。その一つが「郷土の不始末を、郷土の有志が購(あがな)う」という考え方です。かつての藩社会において、身内の人間が幕府の法に触れるような不祥事を起こせば、それは単なる個人の罪には留まりませんでした。それは「藩全体の恥」であり、最悪の場合はお家取り潰しにも直結する危機でもありました。だからこそ、周囲の人間は必死になってその「火消し」に動きました。
かの有名な坂本龍馬のエピソードにもその片鱗が見えます。龍馬が勝手気ままに脱藩し、幕府を揺るがすような行動を取った際、その背後では土佐藩の親族や役人たちが、時には頭を下げ、時には書類上の帳尻を合わせ、必死にその「しりぬぐい」をしたエピソードがあります。それは単なる甘やかしではありません。身内が空けた穴を組織の力で埋め、不始末を「大志」へと昇華させる。「自分たちの組織から出た火種は、自分たちの手で始末をつける」という、強烈な自治意識と連帯責任の表れだったのです。
翻って現代はどうでしょうか。今の日本に、こうした泥臭くも高潔な風習は残っていません。代わりに私たちが日々目にするのは、不祥事が起きるたびに繰り返される「引責辞任」という名の責任の取り方です。
「トカゲのしっぽ切り」が蝕む日本の未来
ニュースをつければ、選挙に負けた政党の幹部や、赤字を出した企業のトップが頭を下げている光景を目にします。一見、責任を取っているように見えますが、私にはどうしてもそれが「トカゲのしっぽ切り」にしか見えません。首だけを変えて、問題の根底にある組織の体質はそのまま放置されているケースがあまりにも多いと感じます。
こうした引責辞任の多くは、本人が自発的に行うというより、周囲が「責任を取れ」と声高に叫ぶことで実施されているように思います。特に選挙の場合、一緒に戦って負けた仲間や評論家ほど、その傾向が強い。しかし、自分が選挙に負けたすべての責任を特定の個人に押し付け、自分自身を正当化してはいないでしょうか。
それを見るたびに、私は「日本が平和でよかった」という皮肉な気持ちになります。なぜなら、「誰か一人のせいにすれば、それで事が収まる」という思考停止がまかり通っているからです。「誰かを吊るし上げれば、問題が解決した気になる」というこの状況は、真の問題解決から目を背けているに過ぎません。
「選挙に負けたのは代表者のせいだ」と叫ぶ人々は、果たして自分たちは本当にできる限りの最大限の努力をしたのでしょうか。そうした内省なく、ただ誰かのせいにして幕引きを図る。これは私が最も嫌う「当事者意識の欠如」そのものです。
このような習慣は、実社会に深刻な弊害を生んでいます。私は会社員時代、優秀な社員が「管理者になんてなりたくない」と口を揃えるのを何度も見てきました。彼らにとって管理職とは、一度の失敗で上げ足を取られ、切り捨てられる「負の象徴」でしかないのです。
最近の日本人は保守的になり、チャレンジ意欲が低いと言われますが、その原因は「失敗を許さない不寛容さ」にあると考えています。失敗を個人の罪で終わらせず、組織全体として背負い、その後の糧にする。そんな「再挑戦を支える仕組み」こそが今、求められているのではないでしょうか。
池袋の悲劇と、板橋区民としての「申し訳なさ」
それでも、選挙やビジネスの経営上の失敗であれば、まだやり直しがききます。しかし、事故で人の命が失われたケースでは、そうはいきません。「責任を取る」という行為には、より重く、実質的な意味が求められます。
今から6年前、池袋で高齢ドライバーによる母子死亡事故が起きました。世間を震撼させたあの事故の加害者は、あまり広くは知られていませんが、実は私の住む板橋区の住民の方でした。事故現場は豊島区でしたが、加害者は板橋の人だったのです。
その加害者の方は、すでに亡くなっています。法的な意味での追及は終わりました。しかし、事故の前後で何が変わったでしょうか。相変わらず「免許返納」という個人へのアプローチばかりが語られ、社会の「仕組み」としての大きな変化は感じられません。
私は、事故の加害者の方を直接知る立場にはありません。ただ、中学生時代からの親友の父親の友人が加害者だった、ということを事故後に知りました。それでも、同じ板橋区民として、あの凄惨な事故を起こした者が「同郷」であったという事実に、被害者の方々に対して「申し訳ない」という、人から見れば考えすぎかもしれないほどの負い目を感じ続けています。
だからこそ、私は立ち上がりました。板橋の人間が起こしてしまった「郷土の不始末」を、同じ板橋の人間である私が「購う(あがなう)」べきではないか。加害者が果たせなかった再発防止の責任を、板橋の有志として私が引き継ぐ。現在、私はその「責任」を果たすべく、高齢ドライバーの事故を未然に防ぐ事業を考えています。行政や社会の壁は厚いですが、私はこの「購い」を止めるつもりはありません。
おもてなしの心で、「未然防止」という責任を果たす
「板橋区民が起こしてしまった事故の責任を、別の板橋区民が一生を懸けて取ろうとしている。二度と同じ悲劇が起きないよう、必死に汗をかいている」
もしそのようなストーリーが知れ渡れば、かつて「犯罪者」扱いだった龍馬を土佐藩の代表へと復権させ、大政奉還へと導いた後藤象二郎のように、共感を持って受け入れてもらえるのではないか。後藤が龍馬の「穴」を埋めて時代を動かしたように、私もまた事故の「穴」を埋め、安全な未来を創りたい、と考えているのです。
事故が起きてからの責めは「事後処理」です。しかし、不幸な人を出す前に、その芽を摘む「未然防止」の仕組みを構築することにこそ価値があるはずです。この当たり前を実現するために、私たち日本人が本来持っている「おもてなしの心」を呼び覚ましましょう。相手を思いやり、先回りして危機を未然に回避するその精神さえあれば、高齢ドライバーの事故は必ず防げます。
私は板橋から、この「購い」のモデルを発信し続けます。責任を誰かのせいにして留飲を下げ、事故が起きてから対策を考える、そんな考え方はもうやめるべきです。一人ひとりが当事者意識を持ち、事故を未然に防ぐことに心血を注ぐ社会を作る。それが、あの悲劇に対する、私なりの、そして板橋の人間としての最大限の「責任の取り方」だと考えています。
