「運転を続けたい」そんな切なる願いに応えたい 現代版「姨捨山」の発想と心得が窮地を救う!

高齢者をおんぶする子どもの図

現代に問いかける「運転」と「姨捨山」の教訓

「高齢者が我慢ばかりの生活を送ると、前頭葉への刺激が減少し、心身機能の低下を加速させる」。これは、和田秀樹氏の著書「どうせあの世にゃ持ってけないんだから後悔せずに死にたいならお金を使い切れ!」の中で紹介されている一部で、私たちに改めて考えさせられる問題提起です。
この言葉に触れたとき、私の脳裏に浮かんだのは、かつて『まんが日本昔ばなし』で見た「姨捨山」の物語でした。年老いた親を「役に立たない」として山に捨てるという悲しい掟。しかし、物語はそこで終わりません。息子に連れられて山へ向かう母親は、帰り道がわかるようにと、静かに木の枝を折っていきます。この母の行動こそ、単なる受動的な犠牲者ではない、知恵を持つ存在としての輝きを示唆しているのではないでしょうか。長年連れ添った母親を山に置き去りにすることへの息子の葛藤もまた、現代社会における高齢ドライバーの運転免許返納問題と重なるように感じられます。

免許を返納させることは、現代版「姨捨山」なのか

長年、家族のために尽くし、子どもたちを育ててきてくれた親から、ただ高齢であることを理由に運転免許を取り上げることが、本当に最善の策なのでしょうか。運転という自由を奪うことは、活動範囲を狭め、社会とのつながりを希薄にし、結果として心身の老化を早めてしまう可能性が否定できません。もしそうであるならば、それは昔話の姥捨山と、本質的に変わらない行為と言えるかもしれません。
しかし、「姨捨山」の物語には絶望だけではなく、希望の光も描かれています。それは、山に捨てられたはずの母親の知恵が、後に国を救うという展開です。この物語を現代に置き換えるならば、高齢の運転者が持つ豊富な経験や知識こそが、安全な運転を継続するための鍵となり、ひいては社会全体の課題解決に繋がる、という可能性を秘めているのではないでしょうか。

高齢ドライバーの知恵を「安全」に変える道筋

では、高齢ドライバーのどのような知恵が、免許返納という現状の流れを変える力となるのでしょうか。物語の母親が帰り道のために枝を折ったように、高齢の運転者が自らの運転能力と真摯に向き合い、安全運転のために具体的に何ができるかを考え、それを示すことが重要です。
それは、単に「注意します」といった抽象的な言葉ではなく、具体的な行動計画 を立てることに他なりません。その際、自分の運転に関する希望や目標を考えてみて、それらを達成するためにやるべきことを具体的に考える、という方法が非常に効果的だと思います。
例えば、「〇〇歳まで運転したい」という目標に対し、「そのためには、夜間の運転は避ける」「定期的に講習を受ける」「家族に運転状況をチェックしてもらう」といった具体的な計画を立てるのです。自身の希望実現のためならば、計画へのモチベーションは高まり、実行力も伴うはずです。

「”好例”ドライバー」という新たな視点

作成した運転計画は、作成したら終わりではありません。本人だけではなく家族とも共有し、計画内容をしっかり実行すること、そしてその進捗を記録・共有することが何より重要です。その際、家族からの励ましや肯定的な言葉があると、より一層心強い支えとなるでしょう。このような長く生きている親の知恵と工夫によって、運転に不安を感じている家族の心配を安心に変え、運転を続ける道を探ることができれば、それはまさに現代版「姨捨山」と言えるのではないでしょうか。
「姨捨山」の物語で息子が母親を本当は捨てたくなかったように、家族もまた、親の生活の質を不必要に下げ、親の老化を早めることを望んでいるわけではないはずです。年齢という一律の基準で線を引くのではなく、個々の知恵と工夫によって安全な運転を続ける、「高齢ドライバー」ならぬ「”好例”ドライバー」という新たな視点を持つことが、これからの高齢ドライバー問題の解決に繋がるかもしれません。

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